心筋梗塞になっちゃった・・・
(大病患ったら人形(ひとがた)とお別れかなと・・・)



戻る


 時は平成25年12月某日、夕食食べて風呂上がりのペプシネックスを飲む至福の時を迎えていたら、
なんだか胸全体が重苦しくなり、これは、ペプシネックスを一気飲みしたから胃に炭酸ガスが一杯になり
苦しくなったかなぁ位に思い、ゲップを出す努力をしていたら、多量のゲップ。
 あぁそうだったのかと、安心したのもつかの間、だんだんと重苦しさが辛くなり、
とりあえず横になりました。しかし、寝ていられないんですよね。
居ても立っても居られない重苦しさ。。。
そのうちに、汗まで出てきて、これはいつもと違う!と思っていたら、
顎が痛くなり、両側下の奥歯の根っこに何とも言えない重苦しい痛みが感じられ、
(心筋梗塞の放散痛と言うそうで、他に左肩にも見られるそうです)
ついに胸の真ん中に拳で握られるような痛みが起こりました。
 ついに来たか!心筋梗塞だ!と思いましたので、動けるうちに119に電話して
現在の症状を伝え玄関で救急車が来るのを待ちました。
その間、家の中をウロウロウロウロ動いてました。ほんと、止まっていられないんですよね。
 胸の真ん中の痛みが出ると、今度は冷や汗になりました。
だんだんと握られているような痛みが増してきて、気が遠くなるのが判ります。
失神したら終わりだと思いつつ、気を確かに気を確かに!と自分に言い聞かせ。。。
 重苦しさを覚えてから、ここまで10~20分だと思います。
救急車のサイレンの音が聞こえたら、なんだか少しホッとしたような。
でも、救急車が来ても受け入れ病院が見つかるまでかなり時間を要する場合が多々あります。
職業柄そういう場面を良く見てきました。
病院のたらい回しは現実には決して減ってはいない印象です。
 救急隊員に、狭心症の既往歴があり、○○総合病院にカルテがあります。
って言ったら真っ先にTELを入れてくれて、一発で受け入れOK。
 普段通っている病院の先生も
『総合病院の受診歴(カルテを残しておくこと)は後々診断の役に立つから』と言われていました。
調子が悪いと思ったら精密検査しておくことが大切で、
健康だと思っていても一年に一回の健康診断や人間ドックを受けることは重要だと思います。
 私の場合昨年(夢幻的散文第64章)のように、心臓カテーテル検査をしていて、
経過観察通院で注意していたのにもかかわらず発症したんで、相当ショックでした。。。

 んで、救急車の中では死亡率30~40%の大病の為、
さかんに家族への連絡を優先して、私の意識のある内に聞き出そうと一生懸命声掛けをしていてくれた
救急隊員の印象が濃く記憶されています。
程なく総合病院に到着し、緊急手術。
 その前に、導尿カテーテルを我が暴れん棒から入れる時の焼ける様な痛みは。。。痛かったなぁ・・・

 緊急手術は5時間ほど掛かりましたが、
心臓カテーテル手術だったので、小さな傷があるのみ。
 手術が終わり集中治療室へ移動する時、正直『助かった・・・』『命拾いした・・・』と
思っていましたが、発症後数日間が山だという事は知りませんでした。
 血流が滞り壊死した心筋が破れ心破裂で即死って可能性もあったそうで、
集中治療室での数日間は寝返りも駄目、仰向けの状態で心電図直結され、
定期的に自動で血圧を測り、ちょっと心電図に変化があったら看護師がすっ飛んでくる状態でした。
素人目にも心電図の波形はおかしかったです。
目に見えて不整脈でしたし、何回かごとに強くドクン!って心臓が動いて怖かった。
心臓が動いていて怖かったなんて、今考えると変な心境だなと苦笑してしまいます。
 その後、横向きOK(ここまで導尿カテーテル入り)から、
ベッド上起き上がってもOK(ここまでは尿瓶にちゃ~~~状態)、
そしてトイレまで歩行OK、病棟フロア内歩行OK、5分間シャワーOKとなり、
もう帰ってもいいよって。退院になりました。
父親の時の印象では1か月近く入院してましたが、
今は退院早いのね。二週間弱でした。
 しかし、発症後1か月は静養してなさいと言う事で、現在(平成25年12月28日現在)自宅療養中です

 さて、大病患うとドーラ―卒業って私は考えていました。
現に、力を入れることを禁止されているので、フルシリちゃんの移動すら出来ない状態です。
少なくとも来年(平成26年)春まで駄目なので、卒業するにしても春以降の行動となりますが、
退院して家に入った瞬間の感覚で卒業はないな、と思います。
殺風景な死にぞこないオヤジの孤独な独り暮らしの家。
何とも寂しい帰宅になると思いましたが、
家に入った瞬間の温かい感情の渦!!!!
安らぎと、癒しと、自然と出た『ただいま』って言葉で
卒業と言う文字は消えました。
 奥さんズは待っていてくれました。心配してくれていました。
ちび萌奥さんズの中には、目の下が濡れたように光っていた娘も居たくらいです。
不思議な事ですが、目の下が濡れたように光っていたのは、
私が初めてメイクしたちゃんでした。
初めてのメイク、思い入れも魂も濃かったんでしょうか。
『んな訳ねえよ~~~光の加減でしょ。』
そうかもしれません。
いや、きっとそうでしょう。
でもその時のハッとした感情、目撃した現象を大切にしたいと思います。

 んな感じで少し気持ちの整理もついたので、この文章を書いてみました。
(平成25年12月28日)

 平成26年1月に心臓模型が届いたので、補筆します。






 狭窄した部分以降は、少なくとも血流が滞った時間があったわけで、
心筋が壊死して直後に出る物質の数値が一定水準以上になる事を医師はとても心配していました。
その間は、寝返り禁止、一日何回も採血採血採血!
採血の上手い看護師も居れば、この人血管見つけられないの?って思うほど針刺したまま血管を探る看護師・・・
そ~~~~っと探っているんでしょうけど、痛いんですけど~~~(苦笑)
基本、要領が悪く、マニュアル対応しか出来ない事務系にはたまに文句は言いますが、
大人しく良い患者だったと思いますよ(本当ですよ)
ぎゃ~ぎゃ~言う家族も居ないし、独り者だし、
集中治療室から一般病棟へ移った当日、○○○さんちょっと話がありますので、
19時頃伺いますって先生に言われて待っていたら、
すこ~~んと忘れて先生帰っちゃうし(爆)
退院するまで何の話だったのか・・・しかも未だに何の話だったのかわからん。
まぁ先生にとって大した話じゃなかったんでしょうけど、
私にとっては初めての大病なんで有益な情報だったかもしれないと思うと、
患者の方に向いて仕事している医師とそうではない医師との違いがチラチラ見え隠れする瞬間を見た思いです。
その先生、同僚の先生と病室の外の廊下で、御自分の奥様の悪口を延々と言い合っていました(爆)
 補筆追記を書いている平成26年2月6日。発症してから64日目になりましたが、
階段を発症前のように軽快に上る事は未だできません。
少しでもタンタンタンッと階段を上がると不整脈付動悸がしてしまいます。
 現在の仕事は一日立ち仕事&施設内を歩き回り、水の入ったバケツを何回か移動する
ちょっと負荷のある仕事も入ってますので、心臓リハビリには良い環境で働けていると思います。
 まぁ予想はしていたんですが、精神的ストレスは発症前よりきついかも・・・
この業界、人が辞め過ぎ!!!
ちょ~~~~っと入院して自宅療養していたら、職員5人居ませんけど~~~???

(補筆追記 平成26年02月06日)
 



戻る